
Installation View 岐阜おおがきビエンナーレより [2020.12]
8種類の録音、iPad4台
芸術鑑賞経験について語る録音アーカイブに接することで鑑賞者が自らの「鑑賞技法」を省みる場所としての作品。
「あいちトリエンナーレ2019」において展示された《表現の不自由展・その後》に関して、SNSなどインターネット上の「公共圏」においていわゆる炎上が起きたことは思い出すに難くない。目を惹くイメージが切り取られ瞬時に流布する現在のメディア環境において、実際の芸術作品を鑑賞する体験にどんな可能性が残されてい流だろうか。75日間の会期中たった9日間という限られた機会の中で、作品を実際に見ることができた鑑賞者のそれぞれに異なった感想からそれらを見いだすことはできるのだろうか。
《鑑賞者の技法》と《鑑賞者の技法:痕跡》について
《観賞者の技法》は、岐阜おおがきビエンナーレのテーマである、「メディア技術がもたらす公共圏」に応答するものとして私が企画し、チームで制作しました。内容は、あいちトリエンナーレの「表 現の不自由展・その後」を実際に観ることができた観賞者に、 私が感想をインタビューし、それを写真の和室(応接室)で 座って聴くという作品です。
「表現の不自由展・その後」は、ご存知の方もいらっしゃる と思いますが、あいちトリエンナーレのたくさんの展示の中 のひとつでした。内容が色々と取り沙汰され、この展示は一 時閉鎖となりました。トリエンナーレの会期は75日間ありま したが、9日間しか展示されませんでした。このような事態 が起きた背景はいろいろ考えられますが、先ず明らかにイン ターネットが無ければ、SNSでの炎上が無ければ、このよう な事態は起きなかった、と多くの人が口にしていました。ある意味では、「メディアテクノロジーがもたらした公共圏」と も言える場所であるSNSから、この一連の出来事が始まった ということができると思います。この一連の象徴的な出来事 を考える作品です。
加えて、私個人に関連してお話すると、この夏に中之条ビエンナーレ(群馬県)で作品を作成しまして、美術作品を見 る習慣のない鑑賞者も想定される展示でした。また、私も観 賞者として色々な各地のトリエンナーレやビエンナーレを見 て回る機会もありました。そこで私が考えたことは、作品を ゆっくり腰を落ち着けて鑑賞する、見るということが、いま とても難しいことになっているのではないかと感じることが 多くありました。物理的に時間が無いということもあるので すが、作品というよくわからないものを時間をかけて見るこ との難しさを考えました。ある種の忍耐力が必要で、なおか つ時間をかけて見たからわかるということでもない。日常生 活では、スマートフォンでインターネットと繋がれば、わか らないことがすぐに調べられる。すぐに情報が手に入ります。 この生活習慣の中で、アートというよくわからないものに対して、じっくりと向き合いましょうと主張することは、困難ではないか、ということも考えていました。
今回の展示の話に戻ると、《観賞者の技法》というタイトルは、ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』にちなんで つけました。この本は、見るという行為を一種の変数と捉え、 見る行為は絶対普遍のなにかではなく、そのときどきで見る 行為の意味や内容は変わるということを考えさせます。その 見る行為の検証を、特に芸術作品の鑑賞行為、つまり観賞者 側の見ることのあり方についての作品としました。写真のよ うに、この机とヘッドフォンのセットが部屋の中に4つあり、 インタビューのアーカイヴズ自体は8つあります。ひとつの 机につきひとつの音声を聞くことができます。
いらした方が必ず反応するのは、各音声が何分かというこ とで、それを見ると「あ、長いですね」と結構驚かれます。 短いもので20分、長いもので60分弱。これを全部聞くのは難 しいですよねということを必ず言われます。私自身もこれを 全部聞くのは難しいだろうな、というところからスタートし ています。ですが、この長さに意味があると考えていました。 従って、全てを聞くことが難しいかもしれない、ということ は作品の中に意図的に置いたものであります。
最後の写真はギャラリー 2に設置したモニターです。和室 のどの席の録音がどれだけの長さ聴かれているかをリアルタ イムにデータビジュアライズしています。鑑賞者が何をどれ だけ聴いているかの痕跡が、現場から離れた場所で現される、というわけです。画面の縦軸が4つの座席に、横軸が展示時 刻に対応しています。各録音の長さの違いが各座席の幅の違 いに反映されてもいます。画面中央が断層のずれのような描 画であるのは、4つの席に8つの録音を振り分けるために展示 時間の前半と後半で、各席で聴いて頂ける録音を切り替えて いるからです。全ての時間鑑賞されるわけではないという事 は経験的にわかってはいたことですが、このように物理的事 実として提示されることは作家にとっても興味深いものであ ると感じました。(情報科学芸術大学院大学紀要第11巻 P56)