ゆめの中継;状況の上書き1[2020]

Installation View 東京都美術館『都市のみる夢』[2020/9.11-30]より

シングルチャンネルリアプロジェクション22分、ステレオサウンド、地図、ポストカード、電気スタンド、ベッド、スマートフォンを用いた「中継パフォーマンス」

スマートフォンで撮りためた映像を、断片的な物語を基軸として再構成し、国立競技場が象徴する空洞を、その周辺の人間模様を道具に彫刻した。映像と「中継パフォーマンス」という作品全体を通じて、中継のパフォーマティビティに着目し、その批評性を起動することを試みている。

中継を映像表現を用いた「上書きの行為」であると考えている。上書きという着想は街中に点在するグラフィティから得たものだ。特に、暗号的な表現で権力構造に抗うメッセージを示していた、とある「落書き」に刺激を受けたことがきっかけであった。グラフィティはその性質上、消されてしまうこともあれば、その上からまた新たな図像を上書きされることもある。その意味で、キャンバスに描かれる絵画と異なって、その描画は永遠に完成しない。ならば描かれたイメージそのものの示す意味合いのみならず、繰り返し行う、その「行い」の中にある批評性にこそ注目してみるべきではないか。

グラフィティは物理的な、例えば壁といったような物体を支持体に、文字や図像を描く。それに呼応して、私は現実の時空間で展開される状況を支持体に、私の想像した虚構の物語を描く。

レポート《ゆめの中継 状況の上書き1》生中継パフォーマンス 2020年9月27日

情報科学芸術大学院大学 准教授 伊村靖子

パフォーマンスの観客として、私自身の立場は完全な第三者ではない。水谷の活動をある程度知っていたし、スマートフォンで新国立競技場付近から中継が行われるであろうことを予測していた。それにもかかわらず、実際のパフォーマンスを見て強く感じたのは、生中継の映像がパブリックな空間に「ダダ漏れ」になることの政治性だ。中継は、プライヴェートなことと公共性がどう両立しうるのか、どう折り合いがつけられるのかという問いを露呈させた。

私が見た回は、新国立競技場に隣接する公園で偶然居合わせたホームレスの男性と水谷のやりとりの30分程度の中継だった。後から聞くところによると、打合せはほとんどなく、突撃取材のような形で、新国立競技場ができる前とできた後にどのような変化があったのかを探り探り聞いていくスタイルだった。その住人は空き缶を集めて売ることで生計を立てていた。オリンピックに対しては賛成でも反対でもなく、反対運動に対して冷めた態度をとっていた。淡々とした口ぶりからは、むしろ何かの一員になることから距離を置いている様子が垣間見えたのが印象深かった。

一方で、私を含めた観客は東京都美術館の展覧会会場にいて、公園の住人と水谷の会話が映し出されたスクリーンには、その直前まで《ゆめの中継 状況の上書き1》が上映されていた。この作品が一時停止される形で同じスクリーンに中継映像が流れたこともあり、作品に登場する架空の人物たちと公園の住人を比較せずにいられない。

作品に登場するのは、新国立競技場周辺の高級マンションの住人と公営住宅の住人、オリンピック反対運動の関係者、旅行で訪れたカップルの女性の4人で、すべて架空の設定であることは織り込み済みだ。これに対して、中継された公園の住人と水谷のやり取りは何が起きるのか作家自身にもわからない。中継という場に突き動かされて起きたやり取りに思えた。その点で、インタビュイーもインタビュアーも観客も同じ場に立ち会っているという奇妙な連帯が生まれる。

ここで私は「個人的なことは政治的なこと」というキャロル・ハニッシュのエッセイを思い出す。このタイトルがフェミニズムの文脈で一人歩きしたことはすでに知られているが(註1)、この言葉が機能するとしたら、プライヴェートな問題を政治の議題に載せよというスローガンと、政治を個人のレベルに引きずり下ろし、そこで闘えという双方向のメッセージをもつことにあるのではないか。中継は、美術館や国立競技場のような公共空間にプライヴェートなやり取りを挿入することができる。そこではプライヴェートなことと公共性の攪乱が起きる。中継を見ている観客の一人として、私は自身の立ち位置や眼差しの変化を意識せずにいられなかった。

註1:藤野寛「「個人的なおとは政治的なこと」の意味するところ―その誤解に次ぐ誤解について」井川ちとせ、中山徹(編著)『個人的なことと政治的なこと ジェンダーとアイデンティティの力学』(彩流社、2017年)34頁